2014年第Ⅳ期号 ◇◇ ごほうびいらずの学びかた ◇◇

ここに四角い箱があります。箱の真ん中は壁で仕切られ、左右二つに分かれています。それぞれの部屋の入口には穴が空いていて、棒を差し込めば中のものを取り出せるようになっています。そして二つの部屋のうち、右の部屋にだけバナナが置いてあるとしましょう。

まず実験する人がお手本を見せます。はじめにバナナの入っていない左の部屋に棒を差し入れて、この部屋からは取り出せないことを見せてやります。次に右の部屋に道具を差し入れ、バナナを取り出します。

チンパンジーと人間の子ども(三・四歳児)がこの動作を見ています。二人(?)はこのあと、それぞれにバナナを取り出す作業にかかるのですが…。さて、どちらが早くバナナを手に入れられるでしょうか。

答えは意外なものです。

チンパンジーは一回で右の穴に道具を入れてバナナを引っ張り出しました。彼は一気に正解に到達したのです。一方、人間の子どもはどうしたでしょう。彼ははじめに間違った左の穴に道具を差し込み、そこからはバナナが取り出せないことをやってみて、それから改めて右の穴に道具を入れてバナナを取り出しました(ホーナーとホワイトンによる05年の研究から)。

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え、じゃあ人間の子どもよりチンパンジーの方が頭がいいのか?!

いや、むしろここに人間ならではの秘密が隠されているのです。

チンパンジーも人間の子どもも、右が正しい穴だということは実験する人の振る舞いを見て分かっています。ごほうび、つまりバナナが早くほしくてしょうがないチンパンジーは、回り道せずに右の部屋に直行しました。

しかし人間の子どもはそうはしなかったのです。すぐごほうびを手に入れるよりも、もっと大切なことがあったからです。

彼はわざわざ間違いを確かめているのです。右が正しい部屋だから左の部屋に手を出す必要はない、ということを情報としては知っていても、それでも自分の手で、自分の目で、確認しなければ気が済まなかったのです。それを確かめた上ではじめて、さてそれではごほうびをいただこうかな、という行動に移るのです。他人から受け売りの知識で「知ったこと」にするよりは、自分で自分の(知識の)世界を構築することの方が大切だったのです。

こういう学びを、人間ならではの創造性と呼ぶことはできないでしょうか。創造性というのは、何か発明するとか芸術作品をつくるとか、そんな大それたことでなくてよいのです。自分の世界を自分でつくる、それだけのことです。でもそれこそが人間ならではのことなのです。人間の子どもは三・四歳の頃から、ごほうびをもらうよりもずっと大切なことがあることをちゃんとわきまえているのです。

だから学ぶことは情報を増やすこととは少し、いや何か根本的に違うことです。ごほうびがもらえないなら勉強なんてしたくないな、と思う人がいるなら、それは自分を安売りしていることだと言わなければなりません。

チンパンジーは創意工夫ができないから人まねをするだけだ、と思われがちですが、どうして、この実験でお手本の間違いまでていねいにまねて見せたのは人間の子どもの方でした。人間こそまねる(模倣する)という天賦の才をもち、人を模倣しながらそれを自分の知識へと統合し、自分の世界を作り上げていくものなのです。

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もう一歩考えを進めてみましょう。気になるケースが残っています。

それは模倣が苦手な子ども(もちろん大人でも)の場合です。学習障害や広く自閉症と言われる子どもたちは、他人をまね、模倣することがうまくいきません。外からはこの子たちは、自分の世界に閉じこもっている、同じことを繰り返す、外との交流がうまくできていないと見えます。ひるがえって彼らの側からすれば、外界との接点が構成できないために苦しんでいるのです。日々刻々の困惑と苦労はいかほどのものでしょう。

ですがもっとも大もとにある、上述の「自分の世界を創造する」という人としてのあり方にいささかも狂いはありません。なかには超絶的な計算能力や記憶力を発揮する人もいます。これは自分の内部で反復しながら培われてきた力でしょう。絵画・造形芸術に秀でた人もいます。これらはたしかに外界から模倣することをせず、自分の中で反復しながら滴(したた)るように生まれてきた創造です。ただの繰り返しでなく、すこしずつ生じたズレから誕生した結晶のような成果なのです。

もちろん何か立派なものをつくらなければならないわけではないのは、普通の人と同じです。反復しながらつくりだされてきたその生き方(ライフスタイル)を、私は「模倣」に対して「擬態」と呼びたいと思います。ハチに似た形をしたハエ、アリに似たアリグモ、木の葉そっくりのコノハチョウなど、動物の世界の擬態について聞いたことがあるでしょう。擬態とは、自分を何かに似せようなどと言う計画もなしに(つまり意識的な模倣でなく)、反復の中で生まれた自分自身のかたち、自分だけの世界なのです。これをひとつの立派な人間のあり方として認めることができないでしょうか。

いやさらにもう一歩、先の左の穴に棒を差し込んだ子どもは、実は模倣などではなく擬態を実践していたのだ、と思えてならないのですが…。