2013年第Ⅳ期号  ▲▽ 読書好きになるための いくつかのステップ ▽▲

本を読むのが苦手でどうにも好きになれずにいる君へ。きっと読書好きになるためのステップをご紹介しよう。これは私が本好きになるまでの実際の経験をお話しするもので、ウソはひとつもない。それなら試してみようかという人、まずはざっとお読みください。

〔1〕読みどき、味わいどきをつかまえる

どんないい本も、読む自分との“出会い”のタイミングがある。これはいい本だからぜひ読みなさいと人から勧められても、その時が来ていなければさっぱり響いてこない。夏目漱石の「こころ」などはその代表格で、先生の手紙が退屈に思えたとしてもそれは君が悪いのではない(もちろん漱石がいけないわけでもないです、念のため)。ただ、時がまだ来ていなかった。残念、早すぎたのです。

ヒュー・ロフティングの「ドリトル先生」シリーズを知っている人は多いでしょう。動物と話のできる不思議なドクターのお話。オウムのポリネシアが連れて行ってくれる南海の島は、かの「山椒魚」や「屋根の上のサワン」の井伏鱒二さんのひょうひょうとした名訳で読むことができる。実にぜいたくな読書なのだが、誰かが「これを本当に味わえるのは小六の男の子だけだ」と断言しているのを聞いて、うーんそうかと分かるような気がした。つまりこの本はおとなでも楽しめる。楽しめるけれど、もうかけがえのない読書経験にはならないということだ。その本によって自分の感受性のおおかたが決まるようなすごい読書になるには、この本は11~12歳の少年という特別な読み手を待ち構えているのだ。アリジゴクは蟻がはまるのでなければ罠(わな)にならない。落ちたのがバッタやカブトムシなら易々と逃げてしまうだろう。アリジゴクこそいい迷惑だ。

 

〔2〕作者のペースにはまる

大江健三郎に「万延元年のフットボール」という、間違いなく名作と呼ぶべき小説がある(ノーベル文学賞受賞はもっぱらこの作品が決め手だったと言われる作品だ)。高校二年のころ、早熟な同級生たちが「“万延元年”のあの場面がどうのこうの」などと言っているのを小耳に挟んで、愚かな私も背伸びして、赤黒い装幀のかっこよさにも惹かれて買ったのでした。そこまではよかったが、冒頭から粘りうねるような大江さん独特の重たい文体にまるで歯が立たず、本棚にしまいこむしかなかった。その挫折感たるやひどいもので、「自分はバカな猿まねのサルだ」と思ったほど。自己嫌悪と本アレルギーが高じて、しばらくはどんな本も読みたいとは思わなくなってしまった。上に申した「読みどき、味わいどき」を誤った惨(さん)憺(たん)たる羽目に陥ったのだ。

さて1年ほど経った高三のある日、何かの拍子にふともう一度手にとって開いた冒頭の数ページ、穴倉の中に落ち込んだ主人公のうめきが迫ってきた。いっしょに穴の中に落ちてしまった気分。そうして彼が穴から這い出すまで、私は主人公と一緒に自己嫌悪と挫折感にさいなまれるような時間を共有したのです。あの読書経験は何だったのだろう、と今でも思い出す。主人公といっしょに穴倉に落ちた私は、その数ページを読んでいる時間の間だけ、正確に主人公と同じ時間を過ごしていた。それがあの、私自身の自己嫌悪と挫折感の時間を必要とする出来事だったことは、ずっとあとになって気づいたことだった。あれがなければ(おおげさに言えば人生のつまずきというものがなければ)大江健三郎を読むことはできなかった。そのあと、この小説が展開する各場面が自分の読みのペースとすんなりひとつになったのは不思議なことだったが、思えば当然のことでもあった。

「作者のペースにはまる」、それは「作者と自分の歩行の速度がいっしょになる」ということなのだ。

〔3〕速読は読書にあらず

今のことに関連して。

「速読」を勧める人がいる。そりゃ便利だし時間の節約だし、ついでに知識も人より早く増える。いい点も認めるが、今の話で分かっていただけているだろう。それは何か「読書」とは別のことなのだ。

読書とは歩行することであって走ることではない。

そして歩行は立ち止まることを含む。長女がまだ三歳くらいのこと、いっしょに散歩していたら急に立ち止まってしゃがむので、何かと思えば蟻の行進を見ていたり、小さな花をいとおしげにながめていたりする。むろん私は急(せ)かさない。その立ち止まっている時間が大事なのであって、どこか目的地があって散歩していたのではないからだ。

大江さんの次にノーベル賞との呼び声高い村上春樹さんは、作品の中でよく主人公を呆然とさせる。なすすべなくぼんやりと人を待っていたり(しかもだれを待っているかもわからないで)、ひどいときには井戸の中に落としてはしごを外したりする。主人公はどうにもならず立ち止まっているしかない。誰かが言っていたが、こんなとき村上さんは自分自身が作品の次の展開を待っているのだと。

待たなければならない。待たなければ次の時は来ない。そして待つのはけっこうしんどいことです。

そんなに時間をかけて作者は物語を紡(つむ)いでいる。ならば私たちもいっしょに待つことにしよう。

〔4〕出発しないことを享受する

トールキンの「指輪物語」。何冊も何冊もある、読んでも読んでも終わらない長尺のファンタジー、読み通すのは大仕事だ。しかも最初の一巻では指輪をめぐるフロドと仲間たちの旅はなかなか始まらないのだ。おまえたちはいつまでぐすぐずしているのだ … 、読者のいらだちなどどこ吹く風で本当の冒険に出る前の話が延々と続く。

でもそれも、今までこの文章をガマンして読んできた方にはわかるでしょう。フロドたちには出発のための準備が必要だったということが。そしてその準備は作者のトールキンその人にも必要だったことが。さらにその準備は、読む私たち自身にも必要なものであったことが! そうしてこの一巻を読み通した人にだけ、今度こそ本当の冒険が、いつまでも読み終わりたくないと願わせる広大な物語の沃(よく)野(や)が開けるのです。