2013年第Ⅲ期号 空の青さの伝え方

◇◇ 空の青さの伝えかた ◇◇

佐治 恵

 

理系に針路を定めて私の担当から外れることになった高校生から、お礼メールついでにこんな質問が届きました。
「人にちゃんと気持ちを伝えるにはどうしたらいいのか考えています。もし生まれつき目の見えない人に空の青さを伝えるとしたら、先生はどうしますか?」

考えてしまいました。青い空を知っている、中途で失明した人になら「ほら、真っ青な空が広がっているよ、きれいだよ」と言ってあげることができるでしょう。でも一度も空を見たことのない、生まれつき目が見えない人に伝えるにはどうしたらよいのでしょう。まいったなあ、とても私には答えられない。途方に暮れました。

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虫の知らせというのでしょうか、講習前の一日、原美術館をたずねました。品川駅と大崎駅の中間にある、どちらの駅から行っても上り坂を15分ほど歩いてちょっとくたびれたころにたどりつく御殿山の一角、戦前の洋館を改造した美術館です。庭やトイレや、壁の裏にもアートの仕掛けがある、小さいながらたくらみに満ちた楽しい場所です。たとえば部屋のすみの目立たないドアを開けると、そこには奈良美(よし)智(とも)さんの「屋根裏部屋」があって、不機嫌な女の子や(→写真)かわいい犬たち(→隣の写真)に迎えられます。行くたびに展示物がちょっとずつ入れ替わっていて、奈良さん自身がときどき手を入れているのかな、と想像するのも楽しいところ。でもこの部屋があること自体に気づかず帰ってしまう人もいるのです、そういう「残念」もふくめての現代アートの美術館というわけです。

で、このとき特集されていたのは、フランス人女性作家のソフィ カルによる、写真と映像と文章で構成された「最後のとき/最初のとき」。入った最初の部屋に、いきなりあの問いへのヒントとなる展示があったのです。ソフィさんはトルコのイスタンブルで出会った生まれつき目の見えない男性に問いかけました、「あなたにとって、美のイメージとは何ですか」と。

するとこの人はこう答えます。

「私が見たもっとも美しいもの、それは海です。視野の果てまで広がる海です」

私が書き留めた英語の原文はこうなっていました(ソフィさんは母語のフランス語ではなく英語でこの作品を発表したようです)。― The most beautiful thing I ever saw is the sea, the sea going out so far you lose sight of it.

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次の写真はその展示の壁面です。小さな顔写真が分かるでしょうか。

この人は生まれつき目が見えないのです。それなのに「私が見たもっとも美しいもの、それは海です」と答えているのです。みなさんはこの答えを変だと思いますか? いや、これこそ人の知覚の不思議をものがたる言葉ではないでしょうか。「見る」とは文字通りに目で見ることとは限りません。この人は「見る」という言葉の中に、視覚をはなれたもっとべつの感覚も込めているのです。「視野の果てまで広がる海」と表現していました。この人は海辺に立ったときに、目の端からこぼれるほど、からだのうしろにまで広がっている光景を感じたのではないでしょうか。それは視覚でとらえた光景ではありません。からだ全体で感じているのです。打ち寄せつづける波の音、柔らかな風のそよぎ、潮の香り、足下の砂の感触 …、これらが一体となってこの人の「私が見たもっとも美しいもの、それは海です。視野の果てまで広がる海です」という言葉を生みました。

壁面のこの作品の題名は『ソフィ カル+杉本博(ひろ)司(し)「盲目の人」1999年』となっていました。見ると棚に写真が置いてあります。杉本さんの作品「海景」からの一枚です。

ニューヨークにアトリエを構える杉本さんは写真や造形を駆使してさまざまな表現の試みに挑戦してきました。なかに世界の海を写真に撮り、同じ水平線でそろえてフレームに収めた何十枚にもおよぶ「海景」のシリーズがあります。一見、どの写真も同じにしか見えません。けれど杉本さんが「太平洋」「インド洋」「カリブ海」などと題をつけて壁面に並べた一枚一枚をたどっていくと、なぜだか違うものたちに見えてくるのです。たとえば「太平洋」なら茫漠とした広さ、「インド洋」なら強い日差しと突然の雨、「カリブ海」なら海賊に出会うかもしれない怖さ …。そんなものを感じてしまいます。

ソフィさんはその一枚をさりげなく置きました。そうして私たちの想像力が働き出すのを待っているのです。

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相手に自分の考えを伝えようとして、コミュニケーションにあれこれ苦労するのは冒頭の質問をしてくれた人に限りません。至るところで「コミュニケーション能力」だの「情報発信力」だの「説明責任」だの、そんなものが尊大にも私たちを脅かします。それがなければやっていけないよ、と言わんばかりに。はっきり言ってもいいでしょうか、「くだらねえ!!」と。ソフィ カルさんも杉本さんも、「コミュニケーション的なもの」を踏みしだいたところで表現しているのです。その表現を導くものを「想像力的なもの」とでも言ってみましょうか。

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エッセイストの三(さんの)宮(みや)麻由子さんは、重い視覚障がいをもちながらそれこそ豊かな想像力でその障がいを克服して(むしろ障がいのゆえにと言いたいほど)自在に世界を広げた方です。『鳥が教えてくれた空』(集英社文庫)に次のような話が出てきます。

目が見えないと、ものに触れたとき、それが液体であれ固体であれ、どんなものなのか感じとるのに手間取ります。でも目が見えないと不自由だ、と決めつけるのは「コミュニケーション世界」にいる私たちの思いこみかもしれないと疑ってみるべきでしょう。

三宮さんは盲学校時代の授業での経験を語っています。水の中に手を入れてみると、ふつうは冷たいとか温かいとかいう感触を得るばかりです。ところが水の抵抗を感じながらゆっくり手を入れていくと、「冷たい/温かい」ではなく、「重い/軽い」という風に感じられたというのです。「重い水/軽い水」というわけです。なるほど、盲学校の授業は感覚を研ぎ澄ますための時間だったのです。今は温泉に入ると、そのお湯が重い感じか軽い感じか肌で分かるといいます。逆に石に触ったとき、ふつうは「重い/軽い」と感じるところですが、三宮さんは「冷たい/温かい」と感じることができるのだそうです。「そうこうするうちに私は、石には種類ごとに微妙な温度差があることに気がついた。溶岩や軽石のように隙間のある石は温かい感触。反対に墓石や教会の壁などに使われる大理石や御影石は密度が濃いせいか、どっしりと冷たいのである。」

こんな感じ方は目に頼っているとかえって遠ざかってしまうものです。「重い水/軽い水」「冷たい石/温かい石」…、 こんな自在な感覚の逆転・置換を共有できたら、私たちの世界もぐんと広がることでしょう。

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「私が見たもっとも美しいもの、それは海です。視野の果てまで広がる海です(the sea going out so far you lose sight of it)」、とトルコの生まれつき目の見えない人が語っていたあの言葉は、「海の美しさ」を「海の広がり」に置き換えたものでした。「美しさ」という視覚に依存した狭苦しい言葉を、視覚を越え、身体全体で受け止めた「視野の果てまで広がる海」というかけがえのない言葉に錬磨したのです。

冒頭の問いは「生まれつき目の見えない人に空の青さを伝える」ということでした。そういえば三宮さんの本の題名は『鳥が教えてくれた空』。その真っ青な表紙カバーは、鳥の囀(さえず)りとその飛び去る速さ、鳥たちの歌声の聞こえてくる高さ、そのときの空気や風、それらが感じさせてくれたものがつまりは空の青さだったのだと物語っているかのようです。

どうやら私たちが伝えるなんて、よけいなお世話のようですね。

 

(紙面の都合上、写真は掲載できません)