2012年第Ⅲ期号 ~『フェリックスとゼルダ』を読んで~

2012年 第Ⅲ期号

~『フェリックスとゼルダ』を読んで~

胡子俊英

この物語を読むことで、人の意識がどのように働いているのか、或いは、人の意識がどのようにしてできあがっていくのか、という問題を久し振りに考えさせられた。

自我の意識が確立した中学生の頃、この自分の意識がどうしてできあがったのか、自分の死によってこの意識はどうなるのか、そもそもなぜ意識が存在しているのか、といった問題に関心が向いていた。

普通、こうした関心は世俗の流れに掻き消され、いつの間にか意識の内から締め出される。そうこうするうちに世俗の価値観が優勢になり、いつしか実存の根拠を問うことはどうでもよくなり、この世での価値を追い求めることで残りの生涯の時間を費やすことになる。

ただ時折、身近な人の死を経験したり、彼岸へ通ずる回路を保っている芸術作品等に触れたりすることで、眠らされていた関心が少しだけ目を覚ます瞬間がある。この物語もそんな力を持った作品の一つだ。

物語の主人公フェリックスはユダヤ人の十歳の少年で、恐らくは強制収容所送りにされたらしい両親から教会の孤児院に預けられ、そこから抜け出して両親を探す旅に出る。少年は両親が生きていると信じてゲットーの地下室に隠れる生活を続けるが、自我が未成熟なこの年齢の少年の不安定な意識の状態が、実にうまく書き表されている。

と、話を読んだ自分が考えたことのように思っているが、もしかしたらそれは、訳者に直接聞いた翻訳の際の苦労話を参考にして、私の意識の中に組み立てられた感想かも知れない。人の意見も価値判断も皆同じように作られていく。どこかで何かの影響を受けながら、いつの間にか無意識の深い部分に沁み込んで、いつしかそれが自分の固有性だと思い込むようになる。

物語の前半では、少年がお祈りをする時、神様、イエス様、聖母マリア様、法皇様と並んで、アドルフ・ヒットラーの名前が唱えられる。ナチス・ドイツ占領下のポーランドということで、少年の意識の中には、歪んだ真理が植え付けられていることが読者には示される。ところが、ナチスの暴虐を幾つも目にした少年が、物語の後半ではヒットラーの名前を消して、その代わりに、少年が好きだった物語作者の名前を挙げるようになる。

我々が拠り所にしている価値の基盤は、それぞれの成育環境に大きく左右されていることは、主人公の少年も我々も変わりはしない。ヒットラーが偉大な指導者だと教えられれば、そうした価値意識が育つし、原発はクリーンなエネルギー源だと言われれば、それを信じて電気を使い放題の生活もしていられる。

戦争文学に限らず、SF的な設定の物語でも、我々が日々の生活では意識できない「死」を直視させるような特異な状況設定によって、日常忘れ去っているこの世の真実の姿を意識させようとする。

しかし戦争を舞台にした作品は、その救いの無さがやり切れない。ましてホロコーストのようなこの世の地獄を描いた作品は、たとえそこからどれだけ多くの教訓を得られようとも、できれば聞きたくない話だ。しかし、耳を塞いでいれば済むことなのだろうか。

平和な日本に住む我々は、この世は無常であるという真実をも忘れ、自分は当分死なないと錯覚して生きている。だから日常に退屈し、日々の生活をないがしろにして生きていられる。

取り敢えず命の危険のない我々には、考えるゆとりがある。それなのに限られた生存の時間を、暇つぶしに使っていいはずがない。日々の忙しさに紛れていてはいけない。我々は生きている間に何を為すべきかを全力で考えねばならない存在のはずだ。

しかし、考える際にも注意すべき点が幾つかある。第一に、考える材料が偏らないようにしっかりと学ぶ必要がある。ヒットラーが偉大な指導者であるかどうか検証できる材料を揃えなくてはならない。それは原発の是非を判断する際も同じことだ。

第二に、いくら材料を豊富に揃えても、判断を下す時には必ずどこかの立場に立っているという限界があるということを知っておくことだ。判断基準となる価値観が違えば、同じ材料でも違う判断が出てくることを知って、自分と敵対する考えを認める寛容さも必要だ。

しかし、寛容さとか呑気なことを言っているうちに、敵対する相手が核ミサイルを打ってきてこちらは国ごと消滅してしまったらどうするのか、という意見も出てくるから厄介だ。

この世のことは考えていたらキリがない。しかしだからこそ、根気良く考え続ける姿勢が必要なのだ。忍耐力のない種が淘汰される運命にあるのは地球の生命の歴史が証明している。

本屋の息子である主人公は、本が好きで自分でも物語を書いているが、絶望的な状況で物語を語ることが大きな意味を持つシーンが幾つか出てくる。物語だけが、平和な時だけでなく、極限状況においても輝きを持つということは、作者の一つの重要なメッセージだろう。人生の不条理の中で、何か確かな意味と価値を求める読者に、一つの希望の拠り所を与えるメッセージだ。

主人公の少年は、収容所行きの列車から飛び降りて、逃避行を続けるところで物語は終わる。えーっ!ここで終わるの!?とも思ったが、ハッピー・エンドを求めるというのも一つの価値観に過ぎない。人間何歳になっても、考え続けねばならないし、学びを止めることもできない。続編の翻訳の出版予定はないということなので、原作を買って第二部を読むことが、この本に出合った私の学びの一つなのかも知れない。

 

『フェリックスとゼルダ』 モーリス・グライツマン 作 あすなろ書房

訳者は館山塾英語科の原田先生です。