2010年第Ⅲ期号 ▲▽ 祖父母、父母の歴史 ▽▲

2010年 第Ⅲ期号

 ▲▽ 祖父母、父母の歴史 ▽▲

胡子俊英

 中学一年生の夏休みに、学校の宿題で「祖父母、父母の歴史」といって、自分の祖父母や父母に戦争経験を聞いてまとめるという社会科の宿題が出ました。

私の両親は広島出身なので、戦争経験と言えばやはり原爆のことが第一です。父は学徒動員で北海道に行っていたのですが、女学生だった母は広島県内にいました。広島市内からは汽車で一時間位の田舎の村です。

昭和二十年八月六日の朝、母の父(私の祖父)は、仕事で県庁に行く用事があったのですが、その日は体調も優れず、暑い日でもあったので、朝の汽車に乗り遅れてしまいました。母は学校へ行っていましたが、学校は母の家から更に内陸の三次市にありました。

ちょうど朝礼をしていた時でした。広島市方面で一瞬「ピカッ!」という光がありました。「敵の飛行機が写真を撮りに来た!」ということで、朝礼を中断し、全校生徒が裏山に避難しました。ところが、しばらくしてもその後は何も起こりません。飛行機の爆音も聞こえてきませんでした。

午後、家に帰ってみると、広島市内に新型爆弾が落とされた、という噂が聞こえてきていました。爆弾が落とされた時は、家の窓ガラスも衝撃波のせいかガタガタ揺れたそうです。祖父は県庁へ行かなかったおかげで、危うく命拾いをしました。

ところが、祖父の弟は当時広島市内で働いていたので、祖父はその弟のことが心配でなりません。周囲の反対を押し切って、祖父は翌日の八月七日に広島市内へ弟を探しに出かけました。

市内の惨状は、写真などで一面焼け野原となった様子が紹介されていますが、現在残っている写真のほとんどは米軍が撮影したものですから、当然八月十五日を過ぎてからのものでしょう。祖父は、原爆が投下された翌日の市内を歩きまわったのです。

まずは直接の被爆を免れた周辺の地域の公民館等が臨時の遺体安置所になっていたので、そこを回りましたが、あまりの遺体の数の多さにとても見つけられそうにありません。また、ほとんどの遺体が黒焦げになっていて、とても身元を確認できそうにありません。幾つかの安置所を回って手がかりをつかめなかった祖父は、意を決して、弟の勤め先があったと思われる場所を目指して市内を歩き始めました。

広島市内には太田川という比較的大きな川が流れています。私も子供の頃、広島の田舎に帰った時に、上流の方で泳いだこともあります。その広い川が人で埋まっているのです。被爆した人達が、全身火傷を負って、熱さから水を求めて次から次へと川へ入って行ったようです。生きているのか死んでいるのかもわからないような、全身黒焦げになった人達が大勢重なり合うようにして川面を埋めています。

気を取り直して、祖父は更に歩き続けます。ふと気が付くと、足元がひどく歩きにくくなっています。なぜか足が滑るのです。何かと思って下を見ると、辺り一面に敷き詰められたように死体が転がっているのです。道路と思われた所も、瓦礫の山になっていましたから、気付かなかったのですが、その一帯は死体だらけだったのです。

死体を避けて歩こうにも、辺り一面に死体があって踏まずには歩くこともできません。祖父は必死にその場所から離れようとしました。ところが、足が踏んだ黒焦げの死体の皮膚が剥がれて滑るのです。足が滑るのはそのせいだったのです。祖父は念仏を唱えながら、何とかその場所を逃れました。

一日歩き回って、結局祖父は弟の消息をつかむことはできませんでした。

一週間ほどして、祖父の弟はひょっこり戻って来ました。しかし程なく原爆症を発症して亡くなりました。亡くなる前に、頭髪は全部抜け落ちたそうです。

母の小学校の友人でも、広島市内の女学校へ進学した子は皆亡くなりました。母は幸い三次の女学校へ進学したので助かったのです。

祖父はまだ放射能の立ち込める原爆投下の翌日の市内を歩き回ったのですから、かなりの放射能を浴びたはずですが、幸い八十歳過ぎまでの天寿を全うしました。

中学生の宿題としてはかなり面倒な部類のものでしたが、あの時聞いていなかったら、こうした生の体験を知ることもありませんでした。原爆の悲惨さなどと言われてもなかなかピンと来ないものですが、淡々と語る祖父の口調と共に、中学生の私は戦争の恐ろしさを心の奥深くに刻み込むことができました。

先日、シャガール展を見てきましたが、あの画家も一九四五年の前と後とでは、色遣いの明るさが素人目に見ても明らかに違っていました。戦争の落とす影は、その時代を生きていた人ではなくてはわからない大きなものだったに違いありません。

この夏、お祖父さんやお祖母さんに会う機会があったら、是非昔の話をいろいろ聞いてみましょう。戦争体験に限らず、テレビもクーラーもなかった時代の話は、きっと今の中・高生にはいろいろと考える材料を与えてくれるはずです。そして、生の体験談は、教科書では学べない歴史学習の一ページになることでしょう。